第一章 ノイズリダクションシステムとは?
adresについて説明する前に、そもそも何故ノイズリダクション(以下、NR)が必要なのか?ということから始めましょう。
磁気テープを使って(アナログ)録音した場合、カセットテープで55〜60dB程度のSN比しか得られません。
レコードですら60〜70dB、CDに至っては90dB以上のSN比がありますから、完全な音量で収録することは不可能です。
そのために、カセットに録音する際は、小さな音がノイズにかき消されないように録音レベルを設定すると、大音量が入ってきたときに音が歪み、大音量のピークレベルに合わせて録音レベルを設定すると、今度は小音量時に音楽がノイズに埋もれてしまうという、相反する関係に悩まされてきました。
そこでSN比とダイナミックレンジ(記録できる最小音量と最大音量の幅)の改善を目指して、1970年代から各社が競って技術開発を進めてきたのが"ノイズリダクションシステム"です。
NRには、主に2つの手法があります。
1つは圧縮伸張方式、もう1つはエンファシス(強調)方式です。
まず圧縮伸張方式の基本原理からご説明しましょう。
圧縮伸張方式は、文字通り記録する信号(音楽)を記録時に一定のルールで圧縮し、再生時に圧縮された信号を伸張(拡大)します(そのため、圧縮器のCompressorと伸張器のExpanderの2つをくっつけてコンパンダ(Compander)方式とも呼ばれています)。
圧縮とは低レベル信号を持ち上げ、高レベル信号は抑えて、カセットテープに記録できる程度に信号のダイナミックレンジ幅を狭めることです。
これを例え話で説明すると、こんな感じになります。
遠足に100ccのオレンジジュース(=音楽)を持って行きたいのに、50ccの容量しかないボトル(=カセットテープ)しかありません。そこでオレンジジュースを2倍に濃縮(=圧縮)してボトルに入れ、目的地で水を足して100ccに戻します(=伸張)。
圧縮伸張方式の雄、dbxの動作原理はこの例え話の通りで、音楽信号を1/2に圧縮して記録、2倍に戻して再生しています。
dbxは一時期はドルビーと並んでよく使われましたが、元来業務用で使われていた方式で、今でも業務用で使われています。
効果は非常に大きいのですが、業務用に比べて性能上制約の多い民生機で使うには副作用(後述)が目立ち、主流にはなりませんでした。
次にエンファシス方式です。
人間の耳は、同じ音量でも低音より高音のノイズに敏感であることはご存じでしょうか?
カセットテープで耳に付くヒスノイズは高音に属するため、人間の聴感上、余計気になってしまうわけです。
そこで信号記録時に、高域の信号だけ持ち上げて(エンファシス)記録し、再生時に高域の信号を弱めて(ディエンファシス=強調の逆プロセス)やれば、信号だけでなくノイズレベルも下がる、という原理です。
例えるなら、周囲がうるさい場所でテレビを見ているときに、テレビの音量を上げて(エンファシス)、耳栓をして聞く(ディエンファシス)と、周囲の騒音レベルが下がってテレビの音も普通に聞こえる、という理屈です。
事実上のNRスタンダードになっているドルビー方式の原理はエンファシス方式です。
開発者のドルビー博士は、人間の聴覚特性に注目し、高域のノイズレベル低減を考案しました。これがドルビーBタイプNRです(Bタイプ以前にプロ用のAタイプがありましたが、こちらは全帯域でNRを行なう大がかりなもので、とても民生機器に組み込むことはできませんでした)。
よくドルビーB NRで収録された音楽テープに、「ドルビーNRシステムをお持ちでない場合は、トレブル(Treble・高音)つまみを若干下げて再生して下さい」とあったのも、録音時に高域のみ強調して収録するドルビーBの特性を利用した便宜上の対応策だったわけです。
しかしNR効果としてはやや不十分(5kHz以上で改善効果10dB、1kHzでは僅か5dB)だったため、もっと効果の大きいNRを求める声が出て、後継のCタイプ、高域録音特性を改善するHXシステム、そして最終発展型のSタイプ(厳密にはAタイプの後継SRタイプの民生版で、高周波数域で24dB、低周波数域で10dBのNR効果が得られる)と続いていくことになります。
NRはカセットテープの性能を劇的に改善することができますが、もちろんデメリットもあります。
1つは、本来の音楽信号を加工(エンコード・デコード)するため、必ず音質変化を伴うことです。もちろん影響を最小限にするよう配慮はされていますが、皆無にすることはできません。
次に、録音時と再生時で信号レベルがミスマッチしていると、NRが誤動作して本来の音楽信号に戻せないことです。
カセットデッキを設計する際、基準となるテープ(推奨テープ)をメーカー各社が決めているのですが(写真下)、それ以外のテープを使うと、基準のテープより信号が多く記録されたり、逆に少なくなったりします。
推奨テープの例
(ビクター DD-VR7)
異なったテープを1台のカセットデッキで特性測定した例。
テープによりかなり特性が異なっている。
するとどういう問題が起きるかというと、例えばこういうことになります。
本来1の信号をNR通過時に1.2倍にエンコードしてカセットテープに送るNRがあった場合、レベルミスマッチがなければ問題ないのですが、カセットデッキで記録再生する際に、レベルが1.1になってしまったら、NRでデコードすると1.1÷1.2=0.916となり、本来の信号レベルとは異なってしまいます。
録再でレベルが変わると、再生音は音がこもったり、ふわふわと音楽が波打つように聞こえてしまいます。
このため、自己録再でも録音・再生レベルをきっちり管理しないと、NRが持つ本来の性能は発揮できませんが、実態としては大半のユーザーがNRをかなりいい加減に使用していたことになります。
取扱説明書にはこのような注意書きが書いてあった。
さて、ドルビーやdbx以外にも、数多くのNRが誕生しては消えていきました。
特に日本で数多くのNRが開発され、一時は"NR戦争"とまで評された時期がありました。
当時開発・発表されたNRにはこんなものがありました。
ノイズリダクションシステム一覧
(方式名にアンダーラインがあるものをクリックすると、詳細ページにジャンプします。)
方式名・開発社名 |
発売年
(発表年) |
NR効果
(代表値) |
圧縮伸張特性 |
周波数分割 |
エンファシス |
対レベル |
対周波数 |
圧縮比 |
高レベル圧縮 |
Dolby B
ドルビー研究所 |
1968年 |
10dB(5kHz〜)
5dB(1kHz) |
可変 |
可変 |
-- |
なし |
なし |
固定+可変 |
Dolby C
ドルビー研究所 |
1980年 |
20dB(2kHz〜10kHz)
15dB(500Hz) |
可変 |
可変 |
-- |
なし |
なし |
固定+可変 |
Dolby S
ドルビー研究所 |
1990年 |
低域10dB
高域24dB |
可変 |
可変 |
-- |
なし |
なし |
固定+可変 |
DBX
dbx社 |
1973年 |
30dB以上 |
直線 |
なし |
1:2 |
1:2 |
全域制御 |
固定 |
SNR
dbx社 |
1988年? |
? |
-- |
-- |
-- |
なし |
高域のみ |
なし |
adres
東芝 |
1976年 |
30dB(10kHz)
20dB(1kHz)
17dB(100Hz) |
可変 |
可変 |
1:1.5
1:1 |
1:1.5 |
全域制御 |
可変 |
Super D
三洋 |
1979年 |
35〜40dB |
直線 |
なし |
1:2 |
1:2 |
2分割 |
固定 |
A.N.R.S.
日本ビクター |
1972年 |
10dB(5kHz〜)
5dB(1kHz) |
可変 |
可変 |
-- |
-- |
なし |
固定+可変 |
Super A.N.R.S.
日本ビクター |
1975年 |
同上 |
可変 |
可変 |
-- |
+6dB |
なし |
可変 |
High-Com
テレフンケン社 |
1977年 |
20dB |
可変 |
可変 |
? |
? |
なし |
? |
High-Com II
ナカミチ&テレフンケン社 |
1979年 |
20〜25dB |
可変 |
可変 |
1:2
1:1 |
1:2 |
2分割 |
可変 |
DNL
フィリップス社 |
? |
15dB以上
(10kHz) |
-- |
-- |
-- |
なし |
高域のみ |
なし |
Lo-D Compander
日立/NHK |
1979年 |
20dB以上 |
直線 |
なし |
1:1.5 |
1:1.5 |
なし |
なし |
サイレンス
ソニー(技術発表のみ) |
1980年 |
22dB(100Hz)〜28dB(10kHz) |
可変 |
可変 |
1:2.0 |
+6dB |
なし |
可変
(7〜15dB) |
参考:オーディオ50年史、aVle誌1990年12月号、他
ドルビーは、Bタイプでデファクトスタンダードとしての地位を固め、続いてCタイプで独走態勢に入りました。
皮肉なことに、電子機器で世界を席巻した日本国内勢が全滅して、ドルビー(イギリス)とdbx(アメリカ)が残ったのも、これも1つのエピソードかと思います。
さて、標準として残ることのできなかったNRは数多くありますが、今だに根強いファンを持っているのが、東芝の開発したadres方式です。
圧縮伸張方式とエンファシス方式の双方を組み合わせ、効果が大きい割に副作用が少ないNRとして、国産NRの中で高い評価を得ました。
adresはNRとしてではなく、ダイナミックレンジの拡大を目指して開発されたもので、従ってadresはAutomatic
Dynamic Range Expantion System(自動ダイナミックレンジ拡大システム)を名乗っています。
実際はダイナミックレンジ拡大とノイズリダクション効果は表裏一体のものなので、NRとして認知されています。
次の項では、adresの動作原理について調べてみましょう。
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